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イギリス コレクション

ページ作成: 2005年12月1日 最終更新: 2008年8月18日

イギリスの中国の中央アジアにおける探検

Kintup the Pundit

イギリスの中央アジア探検は19世紀のグレートゲームの始まりとともに開始されました。当時、イギリスとロシアがこの地域を舞台として政治的覇権を争っていました。当時の英領インド帝国とロシア帝国が中央アジアの大草原地帯の覇権を争っており、両者は中央アジアでの諜報活動や食料管理の妨害を行っていました。19世紀には、リスクを犯してまで、地図の作成や軍事情報を収集するためにスパイが送りこまれました。そして、19世紀末には、その関心が地理学、植物学、および動物学の領域にまで広がっていました。

英領インド人がスパイや測量士として現地で働いており、最初の公式な「パンディット」はMohamed-i-Hameed です。彼は1863年にタクラマカンに到達しましたが、その報告書には砂に埋もれている古代都市に関する記述が残されていました。彼は旅の帰途で亡くなり、彼の死を調査したイギリス人調査官のWilliam Johnsonは、1865年に自身の旅を開始しました。彼はホータン近くの廃墟を訪れた際に、報告書の中に古代都市は他にも沢山あると信じていると記述しています。このことはThomas Douglas Forsyth(彼は1870年に独立した中国のトルキスタンの暫定統治者であったヤクブ・ベク(Yakub Beg)を訪問するために派遣されました。)の興味を惹きました。この時、ヤクブ・ベクが不在で会見することができなかったので、Forsythは3年後に改めて任務に赴きました。王立地理学会(Royal Geographical Society)への彼の報告には多数の埋もれた古代遺跡とそこから発掘された遺物が載せてありますが、その中には仏像一点も含まれており、後に彼は10世紀頃と年代比定しています。この報告書(Forsyth_1875)には、この地域の当時の写真が載せられています。(OIOC Photo 997)

1889年、地元のトレジャーハンターがシルクロード北道の南クチャの遺跡で埋蔵されていた写本を発見し、その一部をすぐに地元の学者であった Haji Ghulam Qadirに売却しました。また別の一部をインド陸軍諜報機関将校であったLieutenant Bower中尉が購入し、その未知の言語で書かれた51葉の樺皮で作られた冊子本の写経をベンガル・アジア協会に送りました。そして、A.F.R. (Rudolph) Hoernle(カルカッタ神学校の校長であり、インドアーリア言語の第一人者)によって調査されました。Hoernleはこのサンスクリットで記述された仏教の原典を含む写経の重要性を認識し、この文書の発見と出版によって「東トルキスタンの考古学探検の現代潮流が始まった」と記しています。

1893年から、Hoernleの教唆によって、ギルギット、チトラル、カシュガル、レーの政務官に対して発見した写本は全て入手し、解読するためにHoernleに送るように、と指示されました。これらはHoernleコレクション、または中央アジア文物のイギリスコレクションとして知られるようになり、現在、大英図書館に所蔵されています。1899年にHoernleは収集品に関する最初の報告書(Hoernle_1899)を出版しました。そこには500点以上のコイン、多数の印、テラコッタ、さらに、既知の様々な文字や言語や2つの未知言語(ホータン語とトカラ語)による100点以上の写本の断片について報告されました。しかしながら、このコレクションには理解不能な文字による写本と木版印刷も含まれていました。これらの収集品はGeorge Macartney(カシュガルのイギリス代表)とStuart Godfrey(カシミールの駐在次官)によって、カルカッタのHoernleに送られたものでした。

George Macartneyと初期の偽造

Sir George Macartney と 馬将軍

中国の中央アジアに基盤を築くため、1890年に英国政府の支援を受けたフランシス ヤングハズバンド(Francis Younghusband)による探検隊がカシュガルに到着しました。ヤングハズバンドはそこにイギリス領事を設立するために中国当局と交渉しましたが、断られてしまいました。そして1891年に、若いスコットランド人の中国語の通訳であったGeorge Macartneyを除いて、遠征が終了しました。彼は非公式の代表として活動するために残されたのです。彼には1882年以来領事としてカシュガルに滞在していたロシア人のライバル、Petrovskiがいました。Macartneyは1909年まで待たなければなりませんでした。

Islam Akhun (with Dash I).

1896年、MacartneyIslam Akhunというホータン人の男から、砂漠の古代遺跡から発見されたという噂の写本の購入の話を持ちかけられ、彼はそれらを購入し、インドの Hoernleに送りました。Hoernleは — インドのブラーフミー文字に類似している — 未知の文字と言語の解読を試みました。そしてHoernleは、1897年の予備報告書でそのいくつかを発表し、1899年に完全な報告書を発表しました。この報告において、彼はこの写本が偽物か否かを検討し、偽物という見解を退けました。ただし彼は言語を理解することはできなかったのです。他の人は納得しませんでした。1901年4月に、スタインは、ホータンでIslam Akhunを捜し出し、彼を問いただしました。その結果、Islam Akhunは、自身と同業者がこれらの'古文書'を作成したことを自白しました。スタインはイギリスへの帰途、すでに退職していたHoernleにこの事を知らせました。

Islam Akhunによって作成された木版印刷の偽物

幸運なことに、スタインはその当時未知の言語であったホータン語の写本を多く持ち帰り、Hoernleは後にそれらを解読したので、彼の学術的名誉は回復したのです。偽物の写本と木版印刷が大英図書館のコレクションに保管されています。( 例えば、Or.13873Or.13873/58を御覧ください。)

Macartneyは1918年までカシュガルに滞在していました。この間に写本や遺物を手に入れましたが、その多くは地元で購入したものでした。これらの大部分が現在、大英図書館と大英博物館のコレクションにあります(以下を参照してください)。また、歴代の領事達、George Sherriff、Frederick WilliamsonSir Clarmont Skrineも写本や遺物を入手しました。Sir Precy Sykesは写真記録も続けました。

マーク オーレル スタイン(Marc Aurel Stein:1862-1943)

フェルトのブーツと探検装備姿のスタインのポートレート

Bower写本(Hoernle_1893)の出版、Islam Akhunの発見に関する情報、及びスウェーデン人探検家であるスヴェン・ヘディン(Sven Hedin)の報告が、ハンガリー人マーク・ オーレル・スタインに1900年に実施された中国の中央アジアへの探検を決意させました。スタインはインド-イラン学の学者でしたが、1887年から英領インドのラホールで働いており、そのすぐ後にイギリス国籍を取得しました。彼はHoernleの推薦を受けて、Hoernleの後任となるために1898年にカルカッタへと移りました。しかし1年後にはラホールに戻っています。彼は1900年から1930年の間に中国領中央アジアに4度の探検を行いました。シルクロード南道全域、敦煌、トルファンで発掘を行い、また写真撮影、民族学的調査を行いました。

スタインは1862年にハンガリーで生まれ、オーストリアとドイツでペルシア語とサンスクリットを学び、そしてイギリスとインドで学び働きましたが、全ては中央アジアの古い交易路を探検するためでした。彼はすでにアレクサンダー大王の遠征記、玄奘とマルコポーロの旅行記も読んでいました。彼は特にシルクロードの南道沿いにおける、 — イラン、インド、トルコ、そして中国 — の文化の交流に関心を持っていました。

11カ月間に渡るスタインの最初の探検 (1900-01)では、ホータン、ニヤ、ミーラン、および楼蘭などのシルクロード南道の遺跡を重点的に探検しました。彼は探検報告書 (Stein_1907)、旅の一般記事(Stein_1903)や数編の論文を発表しました。(文献を参照する。)

Ulugh-mazarにて

2度目の探検(1906-8)で、彼はシルクロード南道の以前に発掘した遺跡や新しい遺跡を調査した後、東に移動して、敦煌の北にある漢王朝の防衛施設の調査、発掘を行いました。次に、敦煌の東南にある莫高窟を訪れ、ここで蔵経洞の古文書を入手しました。そして、シルクロード北道に向かい、トルファンに短期間留まりましたが、遺跡の発掘は行いませんでした。彼はホータンの近くの遺跡を発掘する時間を作るために、あえて危険をおかしてタクラマカンを北から南へ縦断し、崑崙山脈での調査をもって探検を終えました。この時、彼はお気に入りのポニーを極度の疲労で失い、そして何本かのつま先を凍傷のために失ってしまいました。数年後に一般報告(Stein_1912)が発表され、そして、地図や図面が掲載された5巻に渡る完全な報告書(Stein_1921)が完成するにはあと数年かかりました。(文献を参照する。)

Dash IIIのアップ

3度目の探検はさらに長く、1913年から1916にまで渡りました。シルクロード南部の遺跡へと戻り、さらに、東へと敦煌に向かい、そこからシルクロード北部のトルファン近くの遺跡、特にアスターナやベゼクリクで発掘を行いました。彼は北ルートに沿ってカシュガルへ旅していましたが、直接インドに戻らずに、パミールを横断して、アフガニスタンの国境を辿り、発掘を行うイラン西部のシスタンへと移動しました。数年後にこの探検の報告書 (Innermost Asia)を出版しました。この探検の一般報告は出版されていませんでしたが、1933年、彼の3度に渡る全ての探検の報告が出版されました。

カブールにあるスタインの墓

スタインは4度目の探検(1930-1)で2000マイル以上を移動し、好きな遺跡を再び訪れました。しかしこの探検は、彼のパスポートが没収されることを聞いていたので、早急に打ち切られました。彼が発見したわずかな遺物はカシュガルの当局によって押収され、これがスタインにとって最後の中国の中央アジア探検となりました。彼は引き続き数年に渡って、4度目のイランとイラクの探検に着手しました。中近東ではローマの防壁の航空機による空中調査を実施し、続いて中央アジアでのアレクサンダー大王の足取りを追い、ついにはカブールでアフガニスタンの考古学調査の長期旅行を計画しているときに亡くなりました。

スタインのオリジナルの資料は、彼の最初の3回の探検に資金を提供した両国、ロンドン(大英博物館、インド省図書館、ヴィクトリア&アルバート ミュージアム)とインドの間で分割されました。1982年までには、ロンドンの写本と写真の大部分は大英図書館に移されました。絵画、彫刻、コイン、その他の遺物のコレクションは大英博物館に保管されています。ヴィクトリア&アルバート ミュージアムは織物を保管しています。

インドに送られた壁画、絵画、遺物、および写本は現在、主にニューデリー国立博物館にあります。カルカッタのインド博物館とパキスタンのPakistan in the Oriental Museumには、第1回遠征の小さなコレクションがあります。

スタインの探検手記、手紙、会計簿などを含む書類は、主にオックスフォードのボドリアン図書館の西洋写本部に保管されており、一連の書類がブダペストのハンガリー科学アカデミー図書館にもあります。スタインの写真の2つ大きなコレクションが、大英図書館とブダペストの図書館に保管されており、その他のいくつかの機関にも小さなコレクションがあります。

イギリスのその他のスタインコレクションの詳細に関しては、大英博物館のHelen Wangによるイギリスのスタインコレクション ハンドブック(Wang 1999)を参照してください。

ハンガリー科学アカデミー図書館のスタイン資料(沢山の写真、書簡、発掘品、蔵書)のコレクションが目録化されました。 (Apor_2002 and Apor_2007).

コレクション:内容とアクセス

イギリスは中国の中央アジアから発見された約50,000点もの写本、絵画や遺物のコレクションを所蔵しています。さらに、数千点の歴史的写真も所蔵しており、その多くはオーレル スタインの三度にわたる中央アジア探検によってもたらされたものです。彼の2度目と3度目の探検による収集品の大部分が、ニューデリーにあるインド国立博物館に収められています。ブダペストのハンガリー科学アカデミー図書館には沢山のスタインの探検写真や書簡、及び写本が保管されています。オックスフォードのボドリアン図書館には大きなスタイン文書のコレクションがあります。大英図書館には、中央アジアでのスタイン、Hoernle、Macartney及びイギリス人に関連する文書があります。その他のイギリスの機関にも小さなコレクションがいくつか存在します。

1. 大英図書館

1.1 スタインコレクション

大英図書館ストロングルームの巻物保管キャビネット

大英図書館のスタインコレクションは、45,000点以上の写本や紙、木、その他の材料に印刷された文書を含んでおり、これらは中国語、チベット語、サンスクリット、西夏語、ホータン語、クチャ語、ソグド語、ウイグル語、チュルク語、そしてモンゴル語を含む様々な言語によって書かれています。写本の中には複数の言語で記述されている物もあれば、判読不可能な写本もあります。また、スタインが1890年から1938年の間にインド、パキスタン、中国の中央アジア、イラン、イラクそしてヨルダンから持ち帰った、麻や紙の印刷物、織物の断片の小さなコレクション、10,000点を超える印刷物と共に経典のカバー、紙切りナイフ、糊の刷毛、そして、スタインによって撮影されたネガやスライドを所蔵しています。

1.2 その他の中央アジアコレクション

スタインコレクションとは別に、大英図書館には、Hoernleコレクションと呼ばれるインド政府によって集められた中央アジアのコレクションがあります。これらは1895年から1899年にかけて、解読のためにカルカッタのHoernleに送られた22点の委託品から成ります。これらは最終的に彼の報告書(1899と1901)が公表された後、1902年に大英博物館に預けられました。さらに10 点の委託品(No.142-44、147-52、および156)が1899年の彼の退官後にも収集され、調査のためにイギリスにいた彼のもとへ送られました。Hoernleコレクションは、2000点以上のサンスクリット、1200点のトカラ語、および約250点のホータン語の写本に加え、若干の中国語、ペルシャ語とウイグル語の写本から成ります。

1918年にHoernleが亡くなりましたが、インド政府は写本や遺物の収集を小規模ながら継続していました。いくつかの小さいけれども重要なコレクションが、カシュガルのMacartney領事の後任者達(Nicholas Fitzmaurice, George Sherriff, Frederick Williamson, Clarmont Skrine)によって大英博物館に移送されました。

Skrineの写真(OIOC Photo 920)と報告書が大英図書館にもあります。APAC ヨーロッパ私文書(APAC European Private Papers)にある中央アジアからの写真がオンラインの写真目録の中に、そして報告書がオンラインの書簡目録の中に見つけることができ、その両方がインド省資料目録(India Office Select Materials Catalogueを通してオンラインで利用できます。大英図書館西洋写本IOL写本と記録部門にも関係書類や文書があります。

1.3 大英図書館コレクションへのアクセス

John Ritblat ギャラリー

大英図書館の写本コレクションの一部が"John Ritblat ギャラリーで展示されており、自由に閲覧できます。これらの展示品は太陽光にさらされることを避ける為に定期的に入れ替えられます。さらに、金剛般若波羅蜜経のデジタル版が、同ギャラリーの'Turning the Pages'(仮想的にページをめくることのできるタッチパネルスクリーン)、CD、そしてオンラインで閲覧できます。沢山の目録があり (文献を参照) 、写本の大部分がマイクロフィルム化されています。四川人民出版社から、14巻からなる中国の敦煌からの非仏教の写本の複写本が出版されました。直接オリジナルの資料を取り扱うことを避けるために、研究者はまず、マイクロフィルム、複写またはデジタル画像を参照して下さい。それでもオリジナル資料が必要な場合は、APAC 閲覧室にて閲覧することが出来ますが、事前に学芸員に連絡を取る必要があります。写本の中には閲覧するにはあまりに脆いものもあるので、あらかじめ、学芸員が写本をチェックしなければなりません。事前連絡がない場合には、写本をお見せできない場合もあります。

アジアアフリカ研究(APAC)閲覧室

APAC 閲覧室に入室するためには、まず、利用者チケットが必要となります。(詳細はここをクリックして下さい。

スタインの写本を閲覧するための詳細はここをクリックしてください。

写真は事前予約をした後に、Prints and Drawings 閲覧室にて閲覧できます。また、APAC 写真データベースでも検索出来ます。(但し、現在、画像はありません。)

大英図書館の所在地、および開館時間の詳細はここをクリックしてください。

2. 大英博物館

2.1 スタインコレクション

菩薩を描いた敦煌絵画

大英博物館が所蔵する中国の中央アジアからのスタインコレクションは、敦煌出土のおよそ400点の絵画、いくつかの織物、様々な遺跡からの数千点の遺物(建築遺物、テラコッタ彫刻、織物、および4,000枚以上のコイン)から成ります。この博物館にはイランやイラクに探検した際のスタイン資料のコレクションも所蔵されています。

2.1 大英博物館コレクションへのアクセス

この博物館の中国の中央アジアからのスタインコレクションの一部が、Hotungギャラリーに常設されている4つの展示ケースに入れられて展示されています。Hotungギャラリーは両サイドの窓から光が当たるので、絵画、紙の資料、織物は展示していません。しかし、Study Roomにおいて、全てのスタインコレクションの資料を閲覧することが出来ます。但し、資料を閲覧するための登録カードが必要です。ビジターは、このカードによって閲覧資格が与えられ、ギャラリーで展示されていない資料ならば、決められた時間にStudy Roomに持ってくることを請求できます。(但し、それは博物館の職員の状況に応じ、一日か二日後になるでしょう。)

敦煌絵画を閲覧するには、学芸員や博物館のアシスタントによる事前準備が必要で、閲覧は遮光されたスタインルーム(the Stein room)で行い、移動させることはできません。絵画や遺物の大部分は3巻からなる(Whitfield 1982-5)に掲載されています。絵画や選ばれた遺物の高品質のデジタル画像がスタインルームのスクリーンや大英博物館のウェブサイトで閲覧できます。詳細はアジア部に問い合わせてください。

DrachmとHemidrachmのコイン (c.127-150).

スタインによって集められたコインのいくつかが、HSBC Money ギャラリー(gallery 68)に常設展示されています。展示されていない物はコインとメダル(Coins and Medals)部門で保管されています。予約が必要ですが、これらはこの部門のStudy Roomにて閲覧できます。このコインの初期のリストが、スタインの3つの主要な報告書の付録に記載されています。リストの改訂とコインのより詳細な研究については、Wang_2004を参照して下さい。

コインについての情報はここをクリックしてください。

大英博物館の所在地と開館時間についてはここをクリックしてください。

3. ヴィクトリア&アルバート博物館 (V&A)

3.1 スタイン コレクション

少しの資料がパブリックギャラリーに展示されていますが、その他の残りの資料は極東部門キュレーターの事前準備によって閲覧できます。その多くがV&A 画像 ウェブサイトでも閲覧できます。

極東部門への問い合わせはここをクリックしてください。.

V&Aの所在地と開館時間についてはここをクリックしてください。.

4. その他のスタインコレクション

ニューデリーの国立博物館のスタインコレクションに関する詳細情報はこちらを御覧ください。

イギリスでのスタインコレクションの詳細に関しては、 Wang_1999を参照してください。

5. イギリスにおけるその他の中央アジアコレクション

イギリスの以下のライブラリーには、中央アジア旅行者達の公文書や写真のコレクション、及びその地域で働いた研究者の報告書があります:

コレクション:IDP

大英図書館、大英博物館、および V&A のコレクションがIDPの一部としてデジタル化されています。

1. 大英図書館

2007年末の時点で、大英図書館が所蔵する20,000点以上の資料に対する90,000点以上の画像がオンラインで利用可能になっています。基金が十分なら、2012年までに資料の80%が利用可能になる予定です。言語による概要を以下に示します。

Number of Manuscripts by Language/Script on IDP in the UK as of 7/24/17

さらに、2,000枚以上のスタインの写真が既にデジタル化され、その多くがウェブサイトに追加されています。

2. 大英博物館

現在、大英博物館のスタインの絵画の大部分が、他の遺物と共にオンラインで閲覧できます。これらの残りの資料をデジタル化するための基金が必要です。コインコレクションはIDPの一部ではありませんが、現在協議中です

3. V&A博物館

現在、 V&A にある700点の織物の全てがIDPのウェブページからでオンラインで閲覧可能です。

4. その他のコレクション

ハンガリー科学アカデミー図書館所蔵のスタインの写真がデジタル化されており、2005年11月からIDPで閲覧可能となりました。

現在、IDPはニューデリーの国立博物館とデジタル化計画をスタートさせることに関して協議中です。

参考文献

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