International Dunhuang Project
IDPデータベース IDPデータベースで検索
IDPをサポート
コレクション : イギリス | 中国 | フランス | ドイツ | 日本 | ロシア | 韓国コレクション | その他

フランスのコレクション

ページ作成: 2005年12月1日 最終更新: 2008年8月18日

フランスの中央アジア探検

Masib, Ahmad, Haji, Abdullahとカラホージャの無法者、パノパにあるアジトにて

19世紀、フランスはベトナムからヒマラヤまで、アジアのあらゆる地域に数多くの探検隊を派遣しました。これらは主に地理学、科学的な探検として開始されました。そして地図のない地域で新しいルートを発見し、植物学や地質学のサンプルを集めました。隊員達は病気や凍えるような寒さ、あるいは賊や現地民との対立といった多くの困難に直面しました。時が進むにつれて探検の目的が多様に広がっていき、その対象は当時あるいはそれ以前の文明の文化的な側面にも広がっていきました。膨大な量の発見物は、調査のため定期的にパリに送られました。その結果、植物学、地質学、地形学、地図学、民族誌学、考古学、および言語学における知識体系が大きく拡張され、統合されていきました。これらの探検家(そのうちの何人かは以下で紹介されます)による成果が、 20世紀初頭のポール・ペリオ(Paul Pelliot)らによるシルクロードの発掘へとつながっていきました。

19世紀の探検家に、地質学者であり自然科学者でもあるVictor Jacquemont (1801-32) がいました。彼はイギリス支配下のインドを旅行した最初のフランス人でした。1828年からボンベイの地で亡くなる1932年までの間、ヒマラヤの奥地を含むインド亜大陸全体を横断しました、彼は訪れた地域の植物、動物、および気候について詳細に記録し、何種類かの植物と哺乳動物の新種を発見しました。彼の書簡と死後の出版物はフランスの科学界に大きな影響を与えました。

1840年代、キリスト教(カトリック)宣教師のÉvariste Huc (1813-60)Joseph Gabet (1808-53) は、ラマ僧に変装してモンゴルとチベットに入りました。そして1846年、彼らは当時外国人の立入が禁止されていたチベットの首都ラサに到達しました。 Huc は仏教を研究したことがあり、中国語を身につけていました。彼は艱難辛苦の旅の間、わずかなメモしか書き残しませんでしたが、後になって何冊かの書物を書き、フランスおよび海外で高い評価を受けました。

19世紀末以前に、Gabriel Bonvalot (1853-1933) と彼のスポンサーであるオルレアン公は(the Prince of Orléans)、中国領トルキスタンとチベットを経て、ハノイに至る(1889-91)という驚異的な旅をし、この旅で地形学、動物学的調査を行いました。Jules Dutreuil de Rhins (1846-1894) はベトナムの地図を作成し、さらにFernand Grenard (1866-?) と共にホータン、中国領トルキスタン、モンゴルそしてチベットを通る困難であり時には新しいルートを旅しました(1890-94)。De Rhins は1894年にチベットで殺害されましたが、Grenard は地質学的、考古学的な標本、写真や地図、さらには天文学、気圧その他のデータの膨大なコレクションを持ち帰り、後にこれらについて発表しました。

"20世紀に変わる前までに、フランスの探検活動は、イギリス、ロシア、ドイツ、およびアメリカのそれと肩を並べるようになりました。これらの国々はアジアにおける影響力を競い合っていました。1900年、西洋とキリスト教の影響に対抗する義和団の乱により、外国人、ジャーナリスト、および探検家は北京に篭城を余儀なくされました。その中に、4年後に学者として本国に戻ることになる一人のフランス人の若者、すなわちポール・ペリオがいました。 "

ポール・ペリオの探検

中国学研究者 ポール・ペリオ(1878–1945).

1901年ベトナムにおいて、アジアの考古学的、言語学的遺産を研究する機関として、フランス極東学院(the École Française d'Extrème Orient:EFEO)が設立されました。中国学研究者ポール・ペリオ(1878-1945) はそこのスタッフでした。1905年、彼はフランスの政治家と学識者によって選出され、クチャのオアシスと敦煌への探検隊を率いることになりました。

ペリオは中国語といくつかの地方の言語を流暢に話し、探検における考古学、歴史学、および言語学関連の調査責任者になりました。彼に同行したのは、地形学、天文学、および博物学の責任者である軍医の Louis Vaillantと、写真家の Charles Nouette でした。彼らは1906年6月15日にパリを出発し、列車で10日間かかってタシケントに到着しました。そこから、さらに列車でアンディジャンに行き、そこで遠征の準備に取りかかりました。そして8月11日、彼らは2人のコサック人と30頭の馬と共に出発しました。彼らは2年以上、馬に乗って旅行することになりました。

彼らの最初の目的地、カシュガルへは1906年8月末に到着しましたが、そこにはその年の6月にすでにオーレル・スタイン(Aurel Stein)がたどり着いていました。カシュガルでの6週間の発掘の間、ペリオは3つの洞窟とテグルマン(Tegurman)遺跡から写本を収集しました。このとき、クチャの仏教石窟にはドイツ人、日本人、およびロシア人が数カ月前に既に訪れていることを知りました。10月18日、遠征隊はカシュガルから東方に300キロメートル移動し、さらに2週間後、トムシュクの修道院の都市遺跡に到達しました。ここはペリオが以前に未知の仏教徒の聖域を見つけたところでしたが、すでにスヴェン・ヘディンによって発掘されていました。12月15日、彼らはクチャに向けて出発し、1907年1月2日に到着しました。すでに他の探検家が訪れた仏教遺跡を迂回し、まず1907年3月16日から5月22日までクチャの南、クムトラ近郊にあるドゥルドゥル・アクルの発掘に注力しました。そこでの発掘品の中には200点の中国語の文書断片、さらにはブラーフミー文字による最古の写本がありました。すべてはひとつの修道院の蔵書に残されていたものでした。クチャの北東に位置するスバシ地方(6月10日から 7月24日まで)では、ペリオはさらに多くの文書断片を集めました。その中にはサンスクリットで書かれた208個のポプラ木の断片 (Udarnavarga)がありました。Saldirang はクチャの失われた言語(トカラ語B または西トカラ語)で記された商隊の許可証と木簡を発見しました。

クチャでの8カ月間の滞在の後、遠征隊はウルムチ経由で敦煌へと移動し、そこで1908年2月12日から6月7日まで滞在しました。2月27日から5月27日まで、彼らは莫高窟でキャンプし、4世紀以降の壁画を擁するおよそ500の洞窟と千仏洞を調査しました。スタインは、この洞窟を訪れた最初の西洋人でしたが、本格的な調査を行ずに、主に蔵経洞(第17窟)に集中しました。ペリオと Nouette は、網羅的な写真と文書による記録を作成し、莫高窟とその内容物の詳細を系統的に記録することに着手しました。3月3日、彼らは蔵経洞に入ることを許可されました。そこには中国語、チベット語、サンスクリット、ウイグル語で書かれた何万巻もの写本、さらには絹や麻、紙に描かれた大きな絵画がありました。ペリオは蔵経洞でまる3週間を費すことを許され、疲れることなく働いて何千巻もの巻き物に目を通しました。彼は新しい情報を含むか、または言語学的に興味深いと判断したさまざまな宗教的、世俗的、地縁的な文書を選び出しました。また彼は像や絹絵も集めました。

"1908年6月、探検隊は再び出発し、1908年9月28日に西安に達しました。そこで1カ月を費やして出土品を整理し、それらを北京からパリまで輸送する準備をしました。2年間にわたる馬での旅の果てに、彼らはようやく列車で鄭州から北京まで移動することができたのです。VaillantNouette はすぐに海路で、梱包された探検の将来品とともにパリに戻りました。しかしペリオは北京に留まり、そのためにとっておいたいくつかの写本を中国の学者に公開しました。果たして、北京における中国の学術界は、敦煌蔵経洞の発見物の重要性を認識し、蔵経洞に残されている内容物を調査するための使節を派遣するよう、政府に働きかける委員会を組織しました(中国コレクション参照)。ペリオは北京で研究を続け、フランスに戻るまでに地域研究図書館を作るべく合計3万冊もの書籍を購入しました。 "

パリでは、書籍と写本はフランス国立図書館に送られ、他の将来品(彫像、フレスコ画、物品、200以上の絵画、幡)はルーブル美術館で保管され、1945年から1946年にかけてギメ美術館に移される前に、いくつかの将来品が展示されていました。フランス自然史博物館は800点の植物、200点の鳥類、哺乳類、昆虫類、および地質学の標本を受け取りました。

ペリオは、1909年にパリへ帰った後しばらくして、中国語写本の最初の目録を作り始めました。これは1920年に完成し、1923年に中国語で出版されました。また、彼は今なお権威ある多数の論文や研究成果を発表しました。例えば、中国における摩尼教と景教に関するものなどです。ペリオの共同研究者はチベット語やその他の言語に取り組みました。これは遅々として進まず、苦心の作と目録が1932年(Naba Toshidaによる)にようやく完成しました。中国コレクションに関する説明付き目録の編集は1952年に始まりました。ほぼ完成に近づいており、1 巻を除いたすべての巻が発行されました。Marcel LalouInventaire des manuscrits tibétainsが1939 年に発行されました。そして同年、ペリオによって持ち帰られた3万冊の本が目録化されました。サンスクリット、ウイグル語、および他の言語による写本コレクションに関してもまた、BnFにおいて目録化の作業が行われました。この他の資料、つまりすべての像、絵画、および写真も目録化され、その多くが出版されています。

コンテンツとアクセス

唐代 (618-907) の女性ダンサー

"ペリオによって持ち帰られた3万冊の本とすべての写本は、フランス国立図書館の蔵書として残されています。その他の資料はギメ美術館にあります。ギメ美術館はまた、Nouette の探検の写真やペリオの日誌、その他のアーカイブも所蔵しています。 "

1. フランス国立図書館(Bibliothèque nationale de France:BnF

1.1 BnFコレクション

写本コレクションは主として敦煌蔵経洞由来のもので、多くの世俗的な文書を含んでいます。例えば、中世の中国における経済的、社会的、法的な発展の歴史の基礎となるようなものです。さらに、BnFはクチャのオアシスから出土したおよそ100枚の貨幣(7世紀と8世紀)を保管しています。BnFでのペリオコレクションは言語別に分類されたいくつかのfonds(コレクション)として、以下のように分類されています。:

1.2 BnFへのアクセス

全てのペリオコレクションは、パリの中心、ルーヴルの近くに位置する、リシュリューという名で知られる元々のBnFに保管されています。写本のすべてがマイクロフィルム化されています(そしてデジタル化中です)。というのも展示できないほどに脆くめったにしか触れることができないからです。ペリオ将来の3万冊の書籍は、100枚の貨幣とともに同じくリシュリューにあります。

所在地と開館時間の詳細に関しては、 ここをクリックしてください。 (情報案内)

"リシュリューの閲覧室に入室するには、閲覧者登録が必要です。
リシュリュー サイトのリーダーカード入手に関する詳細は、ここをクリックしてください。."

閲覧者になれば写本やマイクロフィルムの閲覧許可申請ができます。東洋写本部にメールしてください。

2. ギメ美術館(Musée Guimet

2.1 ギメ美術館コレクション

ギメは敦煌の絵画と様々なシルクロードの遺跡からの像、絵画、幡などの工芸品を保管しています。これらのいくつかは常設ギャラリーに展示されています。これらのコレクションは2巻本で出版されました: 中央アジアの芸術(Les arts de l'Asie centrale) 『ギメ美術館のペリオコレクション』(La collection Pelliot du musee Guimet)(講談社). また、ギメは Nouette の写真のうち数千枚のガラス乾板や、探検から持ち帰った何千個もの貨幣、そしてペリオが手にした全ての出土品と、彼が目にした全ての碑文を記録したと言われる、詳細なノートを保存しています。

2.2 ギメ美術館へのアクセス

ギメ美術館は火曜日を除く毎日、10:00から18:00の間、開館しています。詳細な情報と連絡先に関しては、 美術館のウェブサイトを御覧ください。

IDPウェブサイトのフランスコレクション

BnFとギメ美術館はIDPの創立メンバーです。所蔵品の多くは現在デジタル化されてきており、すぐにオンラインで閲覧可能になることが望まれています。

Number of Manuscripts by Language/Script on IDP in France as of 7/24/17

参考文献

The Collège de France / Centre de Recherche sur l'Asie Centrale et la Haute Asieによるギメ美術館所蔵品に関する出版物の詳細はこのページを参照して下さい。

ホーム | IDPについて | コレクション | 教育 | 保存修復 | 技術 | アーカイブ | サイトマップ | ヘルプ