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ロシア コレクション

ページ作成: 2005年12月1日 最終更新: 2008年8月18日

中国の中央アジアへのロシアの探検隊

1860年代のロシアのトルキスタン(タシケント、サマルカンドとその周辺)への拡大は、ロシアと他国間での中央アジアの利権に影響を及ぼし、地政学上重要な地域へのアクセス権をロシア及びロシアの同盟国に与えました。ロシア政府は、1845年に科学者と探検家によって設立されたロシア地理学会(Russian Geographical Society(RGS))を通して、科学調査の支援と世界中の研究者による研究成果の共有を実現していました。この頃にはすでに北極からアジアへの探検が実施されていました。RGSは1860年代から中央アジアへの遠征を開始し、この地域の地図作製、交易の促進、戦略上の情報収集、政治的影響力の強化に務めました。同時に、植物学、動物学、昆虫学、地理学、民族学、考古学分野への研究資金を増額しました。RGSは資金と報告の面で他のロシアの学会や個人に協力し、結果として1870年から1920年の間に多数のロシア遠征隊がこの地域で交差することになりました。

1860年代と1870年代のPrzhevalsky (下記参照)、 Ioann-Albert Regel、その他による遠征は、地図作製、植物学及び動物学を重点的に調査する傾向にありましたが、考古学上の発見に関しても報告され始めました。1878年にRegelはトルファン地方の荒廃した寺や仏教の遺物に関する報告をしています。1876年から1892年のこの地域への4回に渡る遠征を率いたGregor Nikolaevich Potaninは何万マイルにも渡って調査を行い、植物、鳥、哺乳動物の標本を収集し、砂漠に埋もれた廃墟についても報告しました。この他にも、M. M. BerezovskyとKoslov (下記参照)は、Potanin、 Przhevalskyとその他の隊員による植物調査の遠征に参加し、引き続き考古学調査を行いました。トルファンでのBerezovskyの考古学的発掘がオルデンブルグ(下記参照)によって引き続き行われました。

軍人、地理学者、およびアマチュア博物学者でもある Nikolai Mikhailovich Przhevalsky (1839-88)は1870年から1885年の間に4回にわたる大規模な遠征を率い、ゴビ砂漠を渡ってチベットに数回渡り、また、タリム盆地に沿ってタクラマカン砂漠を北から南に縦断しました。彼も敦煌と莫高窟を訪れ、ロプノ−ルでの砂に埋もれた遺跡の発見を報告しました。Przhevalskyは1888年に実施された5度目の遠征の初期に天山山脈の山麓の丘で亡くなりましたが、遠征は彼の死後も続行されました。彼の業績は広範囲の地図製作、新種を含む何百もの植物学、動物学の標本をサンクトペテルブルグに持ち帰った事です。Przhevalskyが特に有名なのは、野生のフタコブラクダの発見と、後に彼の名が付けられた新種のモンゴル野生馬の発見によります。彼の記録はMongolia: The Tangut Country (1875)From Kulja: Across the Tian Shan to Lob-Nor (1879)に記されています。彼が最後に執筆した本には、中国の西部、モンゴル、チベットのロシア併合と植民地化が提案されていたために論争が起こりました。(IDP ニュース 27を参照して下さい。)

Przhevalskyの仕事は、彼の弟子であるピョートル・クズミッチ・カズロフ (1863-1935)によって続けられました。KozlovPrzhevalskyの最後2回の遠征に参加し、その後、少なくとも6回の遠征に参加しました。RGSによるカズロフ主導の最初の遠征(1899-1901)では、ゴビ砂漠から揚子江とメコン川の上流に達し、6,000マイルに渡って調査されました。この遠征でサンクトペテルブルグに送られた発見物の中には、2,000年前のバクトリアの織物の資料が含まれていました。

カラホトで発掘された仏塔

カズロフは、1907-09年の遠征で、1227年にチンギスハーンによって滅ぼされ、砂に埋もれていた古代都市カラホト(黒水城)(後にオーレル・スタインによって発掘されました。IDP ニュース 2を参照)を発掘した事により、シルクロードの考古学で恐らく最もロシアに貢献しました。Kozlovの発見物の中には、彼が撮影、記録した何百もの仏像や絵画が含まれていました。彼は未知の言語であった西夏語で書かれた何千もの写本や本を見つけ、サンクトペテルブルグに持ち帰りました。Koslovのカラホト遺跡の発見については彼の著書、Mongolia and Amdo and the Dead City of Khara-Khoto(1923)に書かれています。彼の最後のモンゴルとチベットへの遠征(1923-26)では、匈奴の王の墓をいくつか発見しました。

カズロフがタング−トを発見する10年前の1898年に、Dimitri Aleksandrovich Klementz (1848-1914) (RGSが資金提供していたサンクトペテルブルグの人類学民族学博物館(the Museum of Anthropology and Ethnography (Kunstkamera))の管理者)の指揮のもと、トルファン地方への遠征を開始していました。植物学者の妻を同行したKlementzは、まずシルクロ−ドの北部で考古学的な発掘を行いました。重要な発見物はカラホージャ、アスターナ、ヤールホト周辺で作製されたもので、その中には古代ウイグル語、中国語、サンスクリット語で書かれた写本、絵画の断片やル−ン文字の遺物がありました。Klementzは、発見物をグリュンウェーデル(ドイツコレクション参照)と共有し、その結果、グリュンウェーデルは最初のトルファン遠征を計画しました。国際協力のもと、Vasilii Vasilievich Radlov (1837-1918)Sergei Fedorovich Oldenburg (下記参照)によって、これらの発見物が1899年にローマで開催された第12回国際東洋学者会議(the 12th International Congress of Orientalistsで報告されました。この報告とスタインの発見(イギリス・コレクションを参照)によって、中央アジアの考古学研究と遺物の獲得が国際的な関心事となりました。ロシアでは、地理学、民族学、考古学的探検を継続して行うために国際中東アジア研究協会(the International Middle and East Asian Studies Association)が設立されました。ロシア皇帝の後援の元、中東アジア研究協会では、ロシア委員会(議長がRadlov、副議長がオルデンブルグ(Oldenburg))がこの協会の中心となりました。公の目的は「異なる文明間での古代文化のつながりを明らかにするような文化遺産や古代アジア人研究のための探険隊を組織し、すべての探検を国際的に支援する。」ことでした。外務省(the Ministry of Foreign Affairs)管轄下のこの委員会は、調査する遺跡への代表派遣、遠征の組織、ロシアやフランスでの報告書の出版を行う権利を持っていました。

1900年に、Klementz、OldenburgNikolai Ivanovich Veselovsky (1848-1918)は「タリム盆地への考古学的遠征の組織の記録」(note on the organization of an archaeological expedition to the Tarim Basin)を提出し、その中で彼らは、この地域での経済的、商業的発展がこの地域の考古学的遺物に重大なダメ−ジを引き起こすであろう事を示唆しました。

セルゲイ・フェドロヴィッチ・オルデンブルグ(Sergei Fedorovich Oldenburg (1863-1934))は1885年にサンクトペテルブルグ国立大学(St Petersburg State University)(インド学専攻)を卒業しました。更にフランス、イギリス、ドイツで学んだ後、1889年にサンクトペテルブルグ大学の教員となりました。オルデンブルグは、ボリシェヴィキ革命(Bolshevik revolution、1917年2月)直前の1916年12月に、サンクトペテルブルグのアジア博物館(the Asiatic Museum)の館長に任命され、10数年後の1930年4月4日に、この博物館が東洋学研究所に再編されたとき、彼が初代館長に就任しました。そして 1917年の革命の後に、彼は暫定政府の教育大臣に任命されました。彼はその他のポストとしてUSSR科学アカデミーの常任書記や仏教図書(Bibliotheca Buddhica)シリ−ズの編集を行っていました。オルデンブルグの研究は、中世インドの文化や宗教史、仏教美術史、文学書、民俗学、中央アジアの美術に及びました。特に興味を抱いた地域はセリンディア(チベットを含む中東アジアの広大な地域)、モンゴルそして中国北西部でした。ロシア・トルキスタン遠征として知られるオルデンブルグの2回に渡る考古学探検(1909-10 と1914-15)は、セリンディア文化の総合的な研究が主な目的でした。

Samuil Martynovitch Dudin (1863-1929).

オルデンブルグの最初のロシア・トルキスタン探検(1909-10)が、中東アジア研究所(Middle and East Asian Studies)のロシア委員会によって組織されました。当時、グリュンウェーデルの遠征の発掘品(ドイツコレクション参照)のごく一部と、スタインの最初の遠征報告書(イギリスコレクション参照)を除き、イギリス、フランス、ドイツによるこの地域への遠征の発見物は未発表でした。従って、オルデンブルグは彼自身のルートや目的を計画する前に、グリュンウェーデルとペリオ(フランスコレクション参照)に最新の研究詳細を聞きました。この探険隊は1909年6月5日にサンクトペテルブルグを出発しました。メンバーは、指揮するオルデンブルグ、芸術写真家のSamuil Martynovich Dudin (1863-1929;下記及びIDPニュース 14のMenshikovの記事参照)、採掘技術者のDmitri Arsenievich Smirnov、そして考古学者のVladimir Ivanovich Kamenskyと Samson Petrovich Petrenkoでした。残念ながら、考古学者2人は病気になったので、ウルムチからロシアに戻らなければなりませんでした。このチ−ムはサンクトペテルブルグからオムスクまでを列車で旅し、さらにセミパラティンスクまで蒸気船で移動し、ここで、サンクトペテルブルグから運ばれた装備を集めました。そして、準備万端で、料理人1人、馬番1人と2人のコサックを引き連れて、彼らはタランタッス(背の低いロシアの大型四輪馬車)で塔城(Chuguchak)へと出発しました。6月22日に塔城に到着し、彼らは、ハミ(哈蜜)から帯同した通訳者のBosuk Temirovich Khokho、馬番のBisambai、料理人のZakari、2人のコサックRomanovSilantievと共にウルムチ、カシュガルへと向かいました。

8月22日、探険隊はカシュガル近くのシクチンで発掘を開始し、修道院の都市遺跡を探しました。トルファン地域では、ヤールホト、カラホージャ、タイザン(Taizan)、クルトゥカ(Kurutka)、タリクブラク(Tallikbulak)、サッシクブラク(Sassikbulak)、 センギ=アギズ(Sengim-agiz)、ベゼクリク(Bezeklik)、ムルトゥク(Murtuk)、チッカンクル(Chikkankul)、トユクマザル(Toyukmazar)、シルキップ(Sirkip)およびラムジン(Lamjin)峡谷で調査を続けました。12月19日、オルデンブルグはクチャに到着し、そこで、ミンテンアタ(Ming-teng-ata)、スバシ、シムシム(Simsim)、キリシュ(Kirish)、キジル、クムトラ、トルガリクアキプ(Torgalyk-akyp) 、そしてコネシャール(Koneshahr)周辺の石窟寺院を含む、様々な遺跡を調査しました。オルデンブルグの調査方法では、正確でクリアな写真を撮影し、考古学的結果を追求する詳細なデ−タを収集しました。

1910年に、この探険の発掘品がサンクトペテルブルグ ロシア科学アカデミ−の人類学民族学博物館で紹介され、簡単な目録が作成されました。1931-32年に発掘品がエルミタージュ美術館に移管され、1935年からこのコレクションの一部が展示されました。このコレクションには、壁画、絵画、素焼の土器(テラコッタ)、約百点の写本(主にブラフミー文字の断片)、写真、そして遺跡と考古学的な見取図が含まれています。

1914年、Oldenburgの簡単な遠征報告が出版されました。 (Ольденбург С.Ф. Русская Туркестанская экспедиция 1909–10 г.. Краткий предварительный отчет. C 53 таблицами, 1 планом вне текста и 73 рисунками и планами в тексте по фотографиям и рисункам художника С.М. Дудина и планам инженера Д.А. Смирнова. СПб., 1914).

オルデンブルグの2回目のロシア・トルキスタン探検(1914-15)では、芸術家のV. S. Bikenberg、地形学者のN. A. Smirnov、民族学者のB. F. Romberg、10人のアシスタントと中国人通訳者、そして第1回遠征時と同じ写真家のDudinがいました。この遠征では、敦煌莫高窟の正確な地図を作成する事を目的とし、あらゆる平面、横断面、縦断面の調査; 最重要物の写真や模写を撮ること; 石窟の詳細な記述を作成することが目的でした。1914年5月20日、探険隊はサンクトペテルブルグを出発し、塔城-グチェン-ウルムチ-安西-ハミ)-千仏洞-最後に敦煌近くの莫高窟の千仏洞のルートを進みました。1914年8月20日に彼らは最終目的地(莫高窟)に到着しました。簡単な石窟の調査の後、窟番号の再編は行われず、ペリオの付けた窟番号に従いました。3窟はペリオ来訪後に発掘されたので、ペリオ番号には未登録のままであり、オルデンブルクによりA、B、Cと称されました。莫高窟の調査は1914年8月24日に始まり、11月25日に終了しました。オルデンブルグのチームは、各々の像や絵を識別するために文字と数字を使用し、写真、図面、スケッチやメモを取ることによって、各々の品目の詳細な記録を作成しました。彼らは沢山の遺物や古代の写本の断片を発見し、また、オルデンブルグは地元の人から300点以上の巻物を購入しました。オルデンブルグは、敦煌からの帰路に最初の遠征時に調査したトルファンオアシス周辺の多くの遺跡を再び訪れました。

1915年9月1日、断片やその他の発見物(しわがある物、互いに付着している物、黄土や粘土が付着している物を含む)が梱包、又は袋に入れられ、(上述の)サンクトペテルブルグのアジア博物館(現在はロシア科学アカデミ−の東洋学研究所 (IOS)のサンクトペテルブルグ支局)に送られました。5世紀から11世紀までの敦煌写本と断片からなるオルデンブルグのコレクションは、今もなお、サンクトペテルブルグにあるIOSに保管されています。このコレクションには小さな断片も含め、約18,000点もの品目があります。莫高窟の断片の多くは、何世紀にも渡って莫高窟に避難した人々が使用した火が原因で、端の部分が焼けています。1957年までは、探検のメモ、スケッチ、写真が莫高窟に関する唯一利用可能な記録でしたが、謝稚柳が(『敦煌芸術叙録』, 上海出版公司, 1955)を出版しました。

その他のロシア探検隊が K. G. E. Mannerheim (その他のコレクション参照)とSergei Efimovich Malov (1880-1957)によって率いられ、ウイグル族(Uighurs)、ロプノール人(Lobnorians)、サラ族(Salars)の言語や文化を研究するため、2回に渡る調査 (1909-11と1913-14)が行われました。これにより、Malovが初めてチュルク(Turkic)民族の報告を行いました。

外交代表もまた、積極的に考古学的、文化的な遺物を収集しました。これら外交代表の責任者が、1882年から21年間カシュガルでロシア総領事を務めたニコライ・ヒョドロヴィッチ・ペトロフスキー (Nikolai Fyodorovich Petrovski, 1837-1908)でした。ペトロフスキーはこの地域では影響力のある人物で、スヴェン・ヘディンの探険隊(スウェ−デンコレクション)やオーレル・スタインの探険隊(イギリスコレクション)等をもてなし、彼らの探検の便宜を計りました。彼は写本、遺物、美術品の重要なコレクションを収集しました。それらは地元で購入、もしくは彼自身の考古学調査を通して入手されたものです。彼は特にカシュガルからクチャ、ホ−タンの地域、そして、カシュガル、ホータン、南方のレーの三角地帯に興味を持っていました。イギリスの総領事ジョージ・マカートニー (イギリスコレクションを参照)と同様に、ペトロフスキーは、未知の文字で書かれた写本や印刷本を購入しましたが、それらは後になって偽造文書であると判明しました。

以下は、東洋学研究所のコレクションの中央アジアのロシア代表によるコレクションの詳細です。

コレクション: 内容とアクセス

1. サンクトペテルブルグの東洋学研究所(IOS)のコレクション

サンクトペテルブルグの東洋学研究所

ロシア科学アカデミ− サンクトペテルブルグ支局 東洋学研究所は、中国語、サンスクリット、チベット語、モンゴル語、西夏語、トカラ語、ウイグル語、ホータン語、サカ語を含む、膨大な量の中央アジアの写本を保管しています。ペトロフスキーのコレクションは主にサカ語、サンスクリット(ブラフミー)写本 、加えて若干のトカラ語文書を含んでいます。ウルムチとイーニン(伊寧、Kuldja)のロシア領事であったN. N. Krotkovのコレクションは、主にウイグル文書や9世紀から14世紀までの少量の初期木版印刷本の断片を含んでいます。136点を数えるBerezovskyのコレクションは、各品目の正確な由来情報によって整理されました。更に、IOSは20世紀始めにカシュガルのロシア領事館長官であったI. P. Lavrov、ウルムチのロシア領事館保健所長A. I. Kokhanovsky、イーニンの領事F. F. Dyakov、そしてとマロフ(Malov)のコレクションを保管しています。IOSでは東洋学の記録(ア−カイブ)として、クレメンツ(Klementz)、マロフ、オルデンブルグの物も含む中央アジアへのロシア探険隊の記録、個人的な書類、地図を保管しています。

1.1 IOSのタングートコレクション

IOSはカズロフの遠征によってカラホトから持ち帰られた、タングートコレクションを保管しています。カズロフの発掘品は、1911年にアジア博物館(現IOS)に移管されるまで、皇帝アレクサンダーIII世美術館(the museum of Emperor Alexander III)(ロシア博物館)に保管されていました。このコレクションは、主に10世紀に今日の中国北西に西夏を建国したタングート(党項)の人々が使用していた(現在では使われていない)言語で書かれた写本と古い印刷本からなります。これらの資料の中にはたくさんの中国語の写本もあります。この中国語写本の目録作成が、Aleksei Ivanovich Ivanov (1878-1937)ポール・ペリオ (1910年にロシアを訪問)、Vasilii Mikhailovich Alekseev (1881-1951)によって始められました。この仕事は Nikolai Aleksandrovich Nevsky (1892-1937)Konstantin Konstantinovich Flug (1893-1942)によって続けられました。このコレクションの中国語資料の全記録が、Lev Nikolaevich Menshikovにより出版されました。(1926-2005) [Меньшиков Л.Н. Описание китайской части коллекции из Хара-Хото. (Фонд П.К. Козлова). Прил. сост. Л.И. Чугуевский. М., 1984]. Menshikovによると、IOSのタング−トコレクションは、およそ660点の中国語の写本と印刷本からなり、それらの大部分が仏教に関する物です。このコレクションは、歴史学、儒教の書物、道教の作品、辞書、小説、彫版、印刷物も含んでいました。Evgenii Ivanovich Kytchanov教授はタング−ト資料の研究を続け、数十年間で多くの目録と翻訳を出版しました。Ksenia Kepping教授(d. 2002)もまた、この文書を研究し、いくつかの論文を発表しました。

1.2 IOSの敦煌コレクション

オルデンブルクのコレクションはIOSとエルミタージュ美術館(下記参照)の間で分割されました。IOSの多数の敦煌コレクションには、第2回のオルデンブルグの遠征による写本が含まれています。このコレクションには、Malovのホータン遠征(1909-10)時の約30点の写本と、Krotkovによって収集された183点の写本も含まれています。IOSの敦煌コレクションは、合計で18,000点もの資料からなり、この中には365点の巻物、多数の断片や若干の写本が含まれています。写本の大部分が仏教に関するもので、900点のみが世俗文書です。

このコレクションの研究は1920年代後半に日本人研究者である狩野直喜によって始められました。1930年代、敦煌資料の目録作成や記載はFlugによって始められました。Flugは最も重要な仏教または、それ以外の写本に関する多くの論文を発表しました。1950年代には、4人の研究者(V. S. Kolokolov (1896-1979)、Menshikov、V. S. Spirin 及びS. A. Shkolyar)からなる小規模な研究グループによって、この研究が続けられていました。Menshikovが敦煌グル−プ長に任命された1957年までに、コレクション中の3,640点だけが目録に記載されました。(2,000点がFlug、 1,640点がM. P. Volkovaによって目録作成されました。) コレクションの残り(5個の包み、1個の箱、1個の袋)は保管されたままでした。従って、このコレクションの調査、研究ができるように、まずは付着した黄土やその他の屑を取り除き、保存作業と目録作成を行う必要がありました。後に、M. I. Vorobyova-Desyatovskaya、I. S. Gurevich、I. T. Zograf、A. S. Martynov、そしてB. L. Smirnovが研究グループに加わりました。彼らによって、1963年と1967年に2巻の目録、Description of the Chinese Manuscripts in the Dunhuang Collection at the Institute of the Peoples of Asia が出版されました。この目録は2,954の説明文からなり、主題ごとにセクションで分類されています。1999年に上海古籍出版社は中国語でこの目録を出版し、1994年から2000年には、IOSコレクションの敦煌中国語写本17巻の複写を出版しました。1960年から1980年代の間、このコレクションの目録作成と記述がMenshikov、Irena Kwong Lai You 及び L. I. Chuguevsky (1926-2000)によって続けられました。

1.3 サンクトペテルブルクの東洋学研究所へのアクセス

IOSへの来館には、所属機関の推薦状が必要です。

Novo-Mikhailosky Palace (Dvortsovaya naberezhnaya, N 18)の閲覧室の開館時間は、10:00-18:00、月曜日-金曜日; 土日は閉館

コレクションの一部が展示されています。これらの資料の閲覧には、事前に許可を取る必要があります。

IOSの東洋写本文書部門(The Department of Eastern Manuscripts and Documents of the IOS)には、敦煌コレクションの完全な一覧表とカ−ド(紙)目録に加えて、2巻のコレクション目録、17巻の複写Dunhuang Documents Held in Russia、そして、このコレクションの大部分のマイクロフィルムがあります。資料保護の点から、研究者には、まず、複写、マイクロフィルム、デジタル画像の利用をお願いしています。オリジナル写本の閲覧は特別な場合のみ例外的に行っています。写本の破損状況によっては、閲覧をお断りする場合もあります。

詳細情報は、東洋学研究所のウェブサイトを御覧ください。

2. サンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館のコレクション

エルミタージュ美術館には、19世紀末から20世紀初頭にかけて数多く実施された中央アジア探険隊によって、敦煌、ベゼクリク、クチャ、シクシン、トユクマザル、クムトラ、サシクブラク、ホータン、カラホトなどで収集された遺物のコレクションが保管されています。

2.1 エルミタージュ美術館のオルデンブルグコレクション

エルミタージュ美術館の内装を示す出版物

エルミタージュ美術館はオルデンブルグの2度に渡る探検によってもたらされた遺物や考古学的な発見物を保管しています。この中には、仏教の幡や麻製の幡の上部(66点)、シルク製の仏教絵画の断片(137点)、紙に描かれた仏教絵画の断片(43点)、壁画(24点)、織物(38点)、写本の断片(8点)があります。1910年、最初のオルデンブルグ探検隊が持ち帰った壁画、織物、絵画はロシア科学アカデミーの人類学民族学博物館(Kunstkamera)に展示されていました。その後1931年から1932年に、これらのコレクションはエルミタージュ美術館に移管され、1935年以来このコレクションの一部が展示されています。さらに、1950年代後半から、サンクトペテルブルグのIOS(上記参照)所蔵の遺物71点がエルミタージュ美術館に貸し出されています。このコレクションの全品目が修復され、N. V. Dyakonova、 M. L. Rudova-PchelinaそしてMenshikovによって目録作成、研究されました。現在、いくつかの文物が常設展示されています

オルデンブルグの探検による膨大なアーカイブ(彼の日記、地図、記録、そして2,000点の写真など)は、一部がIOSに残されたままですが、大部分はエルミタージュ美術館に保管されています。オルデンブルグの死後、彼の妻 E. G. オルデンブルグは、彼の解読困難なフィールドノートを含む全ての文書を活字化し、まとめました。活字化されたオルデンブルグのアーカイブはノート6冊分で、834ページにも及びます。E. G.オルデンブルグは、エルミタージュ美術館のコレクションに保管されているロシアのトルキスタン探検の全ての写真乾板を再調査しました。それらをオルデンブルグによる窟の記述との比較によって同定し、各ノートの最後に関連する写真を掲載しました。オルデンブルグの最初のトルキスタン探検の記録や遺物が上海古籍出版社から6巻出版されました。

2.2 エルミタージュ美術館の中央アジアコレクションへのアクセス

The State Hermitage Museum, at Dvortsovaya naberezhnaya, N 34は、火曜日を除いて、10:00-18:00に開館しています。

KlementzBerezovskyオルデンブルグのコレクションから、いくつかの壁画、塑像、そしてシルクや紙に描かれた仏教絵画が中央アジアギャラリーに常設展示されています。これらのコレクションにはトルファン、Sassikbulak、トユク溝、シクシン(Shikcin)、クムトラ、ホータンから出土した仏教の埋葬の像、容器、壁画、そして絵画などがあります。敦煌出土の品目(遺物、写真、絵画、地図)が異なる部屋で展示されています。中央アジアコレクションの大半がエルミタージュ美術館に保管されています。

詳細情報は、エルミタージュのウェブサイトを御覧ください。

3. サンクトペテルブルグのロシア地理学協会(Russian Geographical Society)のアーカイブコレクション

ロシア地理学協会のアーカイブはロシアで最も古く、1845年に創設されました。このアーカイブには、中央アジアの文物も含む13,000点の民族学資料に関する60,000点以上のファイルが含まれています。この資料の中にはPrzhevalsky、Potanin、Koslovやその他の人達による旅行記録、図、写真、地図、そして民族学的文物があります。

詳細情報は、Russian Geographical Society Archiveウェブサイト を御覧ください。(ロシア語のみ).

コレクション: IDP

サンクトペテルブルグの東洋学研究所の敦煌コレクションは、IDPの一部としてデジタル化がなされています。このデジタル化は2004年1月から始まり、現在、仏教の巻物(書架番号F-n)がオンラインで閲覧可能です。2008年、敦煌断片のデジタル化が進行中で、西夏資料のデジタル化も開始されました。言語による概要を以下に示します。

Number of Manuscripts by Language/Script on IDP in Russia as of 9/16/14

参考文献

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